陰陽座『十六夜の雨』の歌詞考察

陰陽座歌詞考察

妖怪・飛縁魔を題材とした陰陽座の楽曲「十六夜の雨」。

陰陽座の作品の中には、人ならざる者が人を愛したことで生まれる悲劇を描いたものはいくつかあるが、この「十六夜の雨」も飛縁魔と人間の恋愛関係を描いた内容となっている。

男の身を滅ぼす女の妖怪

竹原春泉画『絵本百物語』

飛縁魔は、美しい女性の姿をした妖怪で、この姿に魅入った男の心を迷わせて身を滅ぼし、家を失わせ、ついには命を失わせるとされている。

『絵本百物語』に登場する妖怪で、元々飛縁魔とは仏教から出た言葉であり、女犯を戒めるため、さらに女の色香に惑わされた挙句に自らの身を滅ぼしたり家を失ったりすることの愚かさを諭す言葉とされている。

昭和・平成以降の妖怪関連の文献では、吸血鬼のように血や精気を吸い取って命を奪う妖怪としているものもある。「十六夜の雨」においても、この「吸血鬼のイメージ」がクローズアップされている。

歌詞解説

もう 視界が歪む 指が震える 骨が軋み上げる
干涸ぶ 此の身よ いっそ 朽ちよと 願うも連れなし

出典: 十六夜の雨/作詞:瞬火

「十六夜の雨」の歌詞は、人間の男を愛してしまった飛縁魔の視点で描かれている。

飛縁魔は男を本気で愛しているが、妖怪としての本能に逆らいきれずに男の血を吸ってしまう。

視界が歪み、指が震え、骨が軋むのは、血を吸うのを我慢することによる禁断症状のようなものだろう。

これほど飢えて渇いているのなら、いっそ身体が朽ちてしまえと思うが、妖怪であり死ぬことがないからか思い通りにはならない。

否や 此れ以上 出来るなら 独り 暮れたい
なれど 亦 二人 唇は 朱に染まりて

出典: 十六夜の雨/作詞:瞬火

出来るならば1人で死んでいきたいと思うが、愛しい人とどうしても離れることが出来ず、またしても男の血を吸ってしまう。

雨に 打たれる 為に
漫ろに行くを 見遣るは 夜の雲や

出典: 十六夜の雨/作詞:瞬火

愛する人を自分から守るために、男から離れようとしているのだろう。

雲がかかる夜空の下を、飛縁魔は雨に打たれて当てもなくさまよっている。

刻んだ噛み痕 細る好き人 とても 見て居られぬ
干涸ぶ 其の身の 愛おしきこと 首筋を 摩る

出典: 十六夜の雨/作詞:瞬火

男は飛縁魔に血を吸われることを受け入れているのだろう。

その首には血を吸った咬み痕がしっかりと刻まれていて、その体は徐々に痩せ細っていく。

飛縁魔はそんな男を愛おしく思い、その首をさする。

否や 此れ以上 出来るなら 濡れて 触れたい
なれど 紛うなり 唇は 何故に染まるや

出典: 十六夜の雨/作詞:瞬火

「濡れて 触れる」とは口づけのことだろうか。

出来るならば口づけをして愛を確かめ合いたいと思っているが、その意に反して女の唇は男の首筋に触れており、血で染まっているということだろう。

雨に 打たれる 為に
漫ろに行くを 見遣るは 夜の雲や
雨に 濡れ戯らせて
後生や 逐おうて来やるな 微温い 夜にいざよう

出典: 十六夜の雨/作詞:瞬火

男から離れようとする飛縁魔だったが、男はその後を追う。

そんな男の行為によって、飛縁魔に躊躇いの感情が産まれてしまう。

否や 此れ以上 出来るなら 独り 暮れたい
なれど 亦 二人 唇は 朱に染まりて

雨に 打たれる 為に
漫ろに行くを 見遣るは 夜の雲や
雨に 濡れ戯らせて
後生や 逐おうて来やるな 雨に 喚く 十六夜

出典: 十六夜の雨/作詞:瞬火

16日の月は15日の満月に比べて出てくるのが遅いので、躊躇っているように見えることから「十六夜」と書いて「いざよい」と読むようになったそうだ。

タイトルの「十六夜の雨」とは、雨の降る十六夜の月の日というシチュエーションを表現すると同時に、愛する彼と離れたくないという躊躇が比喩的に雨として表現されている「猶予いの雨」という意味を持つダブルミーニングになっている。

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