陰陽座『蛟龍の巫女』の歌詞考察 – 天へ昇る龍は何故すべてを愁いていたのか?

陰陽座歌詞考察

陰陽座の歌詞は古語や文語調の日本語が使われることが多く、難解な作品が多い。

しかし歌詞を丹念に読み解いていくと、様々なメッセージが込められていて、言葉の響きの美しさと意味の両立がなされていることが分かる。

今回はそんな陰陽座の作品の中で、物語性の強い作品である『蛟龍の巫女』の歌詞について解説する。

蛟龍=龍の幼生

歌詞の解説に入る前に、タイトルにある「蛟龍」について解説する。

「蛟龍」は中国の伝承にある龍の一種で、「こうりゅう」または「みずち」と読む。
陰陽座の作品では後者の読み方が採用されている。

「蛟龍」の住み処は、湖・淵などの水場であるとされ、文献によっては水を得て神の力を顕現させるとの記述もある。

中国南北朝時代(5〜6世紀頃)の書物『述異記』に、「水にすむ虺(き)は五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で應龍となる」との記述があり、この中の「蛟」が「蛟龍」を指すと考えられることから、「蛟龍」を龍の幼生とする説もある。

陰陽座の『蛟龍の巫女』でも「蛟龍」を龍の幼生と捉えている。

歌詞の解説

1番Aメロ

嗚呼(ああ) 渾(すべ)てを愁(うれ)いて 天(そら)へ昇り行く

龍の面影は 彼(あ)の蛟龍の儘(まま)

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

この曲の主人公は、タイトルの通り蛟龍に仕える巫女

龍が成体になるまで仕えるのが、巫女の役割なのだろう。
成体となり天へ昇っていく龍の姿を見て、巫女は幼生の頃の様子を重ねている。

気になるのは、龍が“渾てを愁いて”いること。

“渾て”とは何を指すのか?なぜ龍は“愁いて”いるのか?

この時点では分からない。

微笑みに宿した 引き留む想いを

掻き消す雨風 躊躇いは偽薬

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

巣立っていく龍を笑顔で見守りながらも、引き留めたい気持ちもある。
そんな想いを激しい雨と風がかき消す。

引き留めないことが正しいのだと自分に言い聞かせて、気持ちを飲み込む巫女の様子が窺える。

1番Bメロ

幽遠の裁きの下に

滅び逝く我らを 救う者

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

幽遠とは、奥深いことや深遠といった意味の言葉。

巫女が仕えることから、龍は神のような存在と考えられるので、“幽遠の裁き”とは龍が下す神の裁きということだろう。

“滅び逝く我らを救う者”という歌詞から、人類が滅亡の危機に陥ったときに、龍が救いをもたらすという言い伝えがあったのだと推測できる。

1番サビ

永久(とわ)に行き帰す 人の過ちの潮

贖(あがない) 其(そ)れすらも 被(かぶ)せて

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

潮が満ち引きするように繰り返される人類の過ち。

罪を悔い改めても、やがて同じ過ちを繰り返してしまう。

人類のこうした行いが、自分たちの危機的状況を招いたのではないだろうか。

殉(とな)ふ浄潔は 責めて餞(はなむけ)の印(かね)

纏(まと)いし 巫(かん)の衣(きぬ)を 染める光よ

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

“殉ふ”は、殉死つまり自らが仕えるものの後を追って死ぬことだ。

浄潔とはその字のとおり清浄でけがれのないことだが、ここでは巫女の存在そのものを指していると考えられる。

つまり巫女は龍が巣立っていくはなむけとして、自らの命を捧げようとしているということだ。

そしてその巫女の装束を光が照らしている。

ここで注目したいのは、巫女が命を捧げる行為を“殉ふ”と表現していること。

殉ふとは、上でも説明したとおり主人などの後を追って死ぬことだ。

ここで“殉ふ”という言葉が使われているということは、龍が死んでその後を追って巫女が死ぬということになる。

つまり龍がもたらす救いは、龍の命を代償に行われるということだろう。

だから巫女は龍を引き留めたい気持ちを抱えていたのだと分かる。

2番Aメロ

褪(あ)すまで 守り継ぐ 回生(かいせい)の綱を

幣(つい)える寸余(すんよ)に 解き放つ 任(まけ)を

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

褪すとは褪せると同じ言葉だが、ここでは色褪せるくらい永い時間を、巫女の一族が代々使命を受け継いできたということだろう。

龍が裁きを下すときが来たことで、その使命からようやく解放されることになる。

我が旨に窶(やつ)した 人々の虚礼(きょれい)

万古(ばんこ)の泉が 懈怠(かいたい)を暴(あば)く

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

“虚礼”とは上辺だけの誠意を伴わない礼儀のこと。

人類を救う龍の存在は、元々は人々から敬われるものであったはずだ。

しかし、長い時間が過ぎる中でその敬意は“虚礼”=形だけのになってしまった。

“万古の泉”とは、遠い昔から続いてきた人々の行いを泉に湛えられた水に喩えたものだろう。

“懈怠”とは義務を怠ることであり、また「けたい」と読むと仏教用語で善行を修めるのに積極的でない心の状態のことを指す。

龍を祀る神事のようなものが遥か昔から行われていたのだろう。

その儀式は時間が経つにつれて、形式だけの心のこもっていないものになってしまったようだ。

2番Bメロ

悠遠(ゆうえん)の堕胎の如き

驕(おご)り呉(く)る我らを燃やせ

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

堕胎は一般的には子供をおろすことを指すが、ここではむしろ換骨奪胎に近い意味だろうか。

Aメロ の歌詞とも関連することだが、“悠遠の堕胎”とは人類の龍に対する敬意が長い年月の間に上辺だけのものになってしまったことを表しているのだろう。

ではその内面はどのようなものであったかというと、龍の救いがあるから大丈夫だという驕りの気持ちになってしまったようだ。

そして巫女にはそのことが分かっているから“燃やせ”と言っているのだ。

しかし龍は人類を救う存在ではなかったのか?

その龍に対してなぜ巫女は“燃やせ”と言うのか?

2番サビ

1番サビと同じ歌詞のため省略

3番Bメロ

優婉(ゆうえん)の焔(ほむら)の如く

滅び逝(ゆ)く我らを灰にして

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

ここでも我ら=人類を“灰にして”と言っている。

“優婉”とは「艶やかで美しいこと」あるいは「優しくしとやかなこと」。

滅びゆくことが避けられないのならせめて優しい炎で灰にして欲しいという想いが感じられる。

やはり人類は滅びる運命なのか?

3番サビ

纏(まと)いし 巫(かん)の衣(きぬ)が 朱(あけ)に染まりて

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

1番および2番のサビとほぼ同じ歌詞だが、巫女の装束が染まる色が変わっている。

朱色に染まった装束は出血によるものだろう。

巫女が自分の命を断つために刃物を使用したことが示唆されている。

天を仰げ 満ちる 粛清(きよめ)の威光(ひかり)

崇(あが)めし 鈍(なまくら)は 狂(たぶ)りて

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

1番および2番のサビで巫女の装束を照らしていた光は、 “粛清の威光”=人類を粛清するためのものであったことが分かる。

“鈍”とは、にぶいことや頭の回転の遅いことであり、ここでは龍による粛清が行われるまで救いを信じていた人類のことを指すのだろう。

救いを信じていた人々が粛清されることになって、パニックに陥っている様子が描かれている。

唱(とな)う 救済(すくい)など

渾(すべ)て 砂上(さじょう)の楼(やぐら)

寄り臥(ふ)せ

此の星を喰らい 廻る 生命(いのち)よ

出典: 蛟龍の巫女/作詞:瞬火 作曲:黒猫

人類が信じていた“救済”は“砂上の楼”のようなものであった。

龍による救済とは人類に対するものではなく、より大きな枠組みである地球という星全体に対するものだったのだろう。

“此の星を喰らい廻る生命”とは、地球の自然環境を破壊して生きる人類のことだ。

人類の活動によって危機的状況に陥った地球を救うために、龍は人類に粛清を与えたのだ。

なぜ龍は“渾てを愁いて”いたのか

歌詞を最後まで読み解くことで、ようやく歌詞の初めにある“渾てを愁いて”の意味が分かる。

龍は天に昇っていく時点で、自分の使命とその結果何が起こるのか全て分かっていたのだろう。

危機的状況にある地球を救うため、自らの命を代償にしなければならないこと

そのために自分を育ててくれた巫女を含む人類を滅ぼさなければならないこと

そのことが分かっていたから、龍はそれら“渾てを愁いて”いたのだ。

最後に

『蛟龍の巫女』は幻想的な世界観で描かれる人類滅亡の物語だ。

しかし単なるフィクションだと言い切れない何かを感じさせられる。

現実世界の自分たちは、この物語の人類ほど愚かではないのか。

それとも同じように滅びるべき存在なのか。

曲を聴いた後に深く考えさせられる作品だ。

 

※R4.4.23追記 初音ミクの歌で「蛟龍の巫女」をカバーしました

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